2020年12月19日土曜日

資本主義の新段階  (ドラッカー学会年報Vol.17 掲載した論文)

はじめに

 現在の社会に起こっている様々な変化は、基本的に資本主義の変遷に関わるもので、ポスト資本主義への行程ととらえることが出来る。ドラッカーはこれから社会に起こる変化の数々は、すでに準備されていたもので、今始まったものではなく、私たちが社会の変化を実感として感じるのは変化の最終段階であると述べている。世界的なコロナウィルスの蔓延により、当初よりも速くその変化が展開しているのは、誰の目にも明らかである。

資本主義の発展段階の中における「管理と支配」がどのように変化してきたのか検討し、さらにどのように変化するのか考証した。管理と支配の在り方は、その国の社会や文化的背景により異なり、管理と支配の変化がその社会を変えてしまう。グローバル化による管理と支配の特質は、国境を越えた大規模なサプライチェーン組織を、資本の論理によって、徹底的な合理化とAIの利用による機械的管理で、容赦のない支配を貫徹したことである。これこそ資本主義の最終段階とも言える形態で、国家という枠を飛び出して私企業の経営者が国家規模の巨大組織を管理、支配する姿である。国際的な企業組織の民主化は、途上国の民主化と同様に急務である。AIの導入によって始まる新しい管理システムは、私たちの生活に直接大きな影響を及ぼす。本論稿では、AIによる組織の管理に着目し、管理の自動化と管理労働者の仕事の変化について論じる。 

私たちは自粛期間中に現代社会の大きな矛盾や物事の本質を垣間見ることが出来た。自由で民主的と思われていた社会が完全でないことも、いざとなるといとも簡単に声の大きい者に流され、流言飛語、自己保身の醜さも体験した。資本主義社会が新たな段階に差しかかり、その制度の改革が急務であり、その変化をどのように生き抜こうか、あるいは変化の動向を見極め、それにどのように対応するするべきか、と考える者は多い。しかし、それは社会がどのように変化するのかではなく、私たちがどのような社会を選択するか、どのように社会を変化させるか、という視点が重要なのである。


第1章       資本主義とは何か 

    資本主義の現段階

 資本主義社会は1700年代半ば以降、ヨーロッパにおいで封建社会が崩壊した後に成立した制度で、政治的には市民革命によって完遂し、経済的には産業革命をもって資本主義社会は確立した。身分制度を排し、生産手段の私的所有が認められ、民主主義に基づいた自由な経済活動を前提とした社会は、現在でも人々のモチベーションを刺激し、個人の豊かさと経済発展の原動力になっている。資本主義社会の急速な発展はヨーロッパの優位性をもたらし次第に全世界に広がりを見せた。[1]

 この資本主義の成立後、二百数十年経た現在そのほころびも目立つようになり、社会に格差をもたらした現代資本主義は、もはや民主主義と自由を前提とした資本主義とは別のものでになった。グローバル資本側の自由ばかりが目立ち、多くの人々は逆に自由を失い、資本主義社会の終わりが近づいているのか、あるいはその形態を大きく変えて生き延びるのか分からないが、決定的な変化は国民国家の発展が私たちの幸せにつながるわけではないことを、多くの人々が実感として感じ取ったことで現代資本主義を最善のシステムと思わなくなったことである。日本における高度経済成長の時代は、働けば会社も労働者も豊かになり、貧しさから解放された。しかし現在は、会社は儲かっているのに労働者は豊かにならず、逆に働いているのに貧しくなっているのが現状である。

 グローバル化が一般的な現在、巨額な資本と膨大な情報を独占するグローバル企業に対抗する手段がなく、私たちの生活に関わる様々なシステムが企業や政府の手によって了解もないまま次々と変更させられるという、明らかに異常な状況が起こっている。それに対し声を上げ、理想の社会の姿を語ることが、社会が間違った方向へ向かうことの抑止になる。

 

     企業の利益と労働者への分配

途上国では、高度成長期初期に労働者が働くことで豊かさを実感することが出来る。しかし、国の経済規模が拡大すると次第に企業間の競争が激化し、国際競争の嵐の中にさらされ、経営の危機に備えるために内部留保や投資を増やさなければならないこと、さらに株主資本主義といわれる労働者よりも株主を優先するようになって、労働者への分配は減らされるようになってしまった。「企業はだれのものか」という議論では、株主優先で結論が出た、というより押し切られてしまった。従業員優先の日本的経営は時代遅れのローカルな考え方として片づけられ、終身雇用は崩壊し、非正規雇用が増え、会社の利益を労働者には分配せず、それより株価を上げるため、株主への配当金を多くすることで、世界の投資家を呼び込み、企業が投機の対象となる不健全な株式会社制度が一般化し、株価を引き上げて無節操な経済活動を仕掛け、格差社会が誕生していった。

 ヘンリー・フォードが自動車会社を創業したとき、多くのスポンサーが資金を提供して会社が設立された。確かに、この時この会社は株主のものと言ってよいだろう。明治初期、三菱における株式会社設立は、岩崎弥太郎個人による出資で、いわば株式会社制度を組織支配の目的に利用した、どちらかというと日本の場合、株式会社制度が最初からゆがめられた形でスタートした。圧倒的多数を占める日本の中小零細企業は、大企業と異なり経営者自身による出資で会社が設立される場合が多く、資本と経営は分離されていない。長期雇用で会社と信頼関係を維持し、会社を守ってきたのは株主ではなく従業員だった。

株主資本主義的な考え方は、実は株主を盾にした経営者支配の一つの側面で、経営の責任を実態のはっきりしない株主に転化しているのではないだろうか。株主の中でも大株主は、グローバル企業や、その経営者たちである。一方、非正規雇用の低賃金で生計も立てられず、忠誠心も仲間意識も消え、働く意欲さえも失われていく結果となった。必要なのは株式市場の民主化と公平な制度の確立で、それによって経済恐慌や、株価の暴落を防ぐシステムづくりを考えなければならない。先進国における貧困の実態やグローバル企業とその経営者の資産を比較すれば、不公平な分配が行われていることに気が付くはずである。従業員を大切にしてきた日本的経営の復活は現実的ではなく、新しい価値観に基づく日本企業の経営システムの構築が必要になっている。

 

   どこまでも資本主義

資本主義はいく度か経験した経済危機に際し、自らその姿を変えることで生き延びてきた。1929年世界大恐慌の結果、大きな戦争を経て先進国は、自由放任を前提とした古典経済学から、景気の変動に政府が積極的に介入するケインズ経済学へと転換することで資本主義の延命に成功した。

1970年代アメリカでは、不況に際し公共投資を増やしたにもかかわらず、景気の回復が見られずスタグフレーションをもたらすと、今度はそれまでのケインズ経済政策を捨て、古典回帰のような新自由主義が導入された。アメリカにとって圧倒的に有利な資本主義制度を時代に合わせてつくり変えることで、資本主義を永遠の制度と位置づけたいのであろうか。確かにアメリカの経営学者の中には資本主義を永遠なシステムととらえている向きがあって、現在では資本主義の定義もあいまいなものになっている。いずれにしても現代社会の矛盾を解決するためには、資本主義の形態を変えればよいということではなく、重要なのは資本主義の存続ではなく、私たちの生活である。

 

2章 新自由主義の誤り

 アメリカ型グローバル化の本質

グローバル化についての問題点を指摘するならば、アメリカが目指したアメリカ型グローバル化と、国際化が進化した形のグローバル化と、二つに分けて考察したほうが理解しやすい。始まりは1970年代のアメリカ経済の衰退であった。豊かな国の不況は、従来のケインズ経済学では解決することが困難で、レーガン大統領を支える経済学者や政策担当者は、新自由主義による新しい経済政策に転換し、いわゆるレーガノミクスが誕生した。その主要な部分は、規制緩和と自由経済そして減税で、政府は経済のことに口をださず、企業に委ねるということである。同盟国に対しても、この政策を強要し各国とも政府による経済の統制は自粛されるようになり、国有企業の民営化がすすめられた。この政策で巨大企業は、だれからも規制されることなく、資本の理論によって世界市場を目指して自由に経済活動を進めることが出来るようになり、さらに巨大化して賃金の安い途上国を利用した世界規模のサプライチェーンを構築してグローバル企業へと発展していった。世界唯一の基軸通貨国であるアメリカは、高金利政策で世界中の余剰通貨をアメリカに集め、それを途上国へ投資を行うという手法を繰り広げ、利益を享受し国際金融システムの頂点に立ち続けてきた。日本も2011年以降貿易収支は赤字基調だが、対外資産保有世界一位で知られるように、日本の経済を支えているのも国際金融投資である。グローバル化は国民の間に格差をもたらしたのと同じように、国家間においても逆転不可能なほどの格差を広げてしまった。現在のグローバル経済システムは、上位の者が下位の富を吸い上げることで成り立っていて、この政策はアメリカが世界一の経済大国としての地位を維持し、世界のリーダーであり続けるための政策だったといえる。規制緩和と、企業が何をしても許される全く自由な経済システムで、だれも追いつくことができない巨大企業を創り上げ、アメリカ社会に富裕層を激増させた。強者の巨大企業と、弱者である中小企業が同じ条件で競争すれば、巨大企業が勝つのは当たり前である。それなのに敗者は自己責任として切り捨て、勝者にすべてを奪われ、巨大企業はさらに大きく成長していった。

先進国に人類史上かつてないほどの富裕層を作り出すことに成功したグローバル資本主義は、他方で多くの貧困を創り出した。富裕層が生み出された一方で、貧困に苦しむ国々からは国民が逃げ出し、移民と難民問題を引き起こした。規制緩和と自由経済で先進国や巨大企業、途上国や中小企業との競争が何の制限もなく、敗者が次第に貧困化していく。これがアメリカ型グローバル資本主義の本質である。企業間の競争に勝ち続け、巨大に成長したからと言っても、彼らが社会を支配する正当性はなく、社会の中で支持されて必要とされる企業であり続けなければ、その存続は困難になる。

結果としてアメリカ型新自由主義は、自由と民主主義という従来の資本主義の基礎を壊してしまった。コロナ禍によるグローバルサプライチェーンの分断と自国優先主義が途上国経済を不安定にし、グローバル企業は自社に都合の良いようなシステムを創出しようとしている。

 

 民主主義の崩壊と全体主義の脅威

 ナショナリズムや全体主義は小さなことがきっかけで、いつの時代でも、どこの国においても起こりうる現象である。トランプ大統領がアメリカファーストを掲げてから、世界中が自国優先で保護主義が蔓延し始め、ナショナリズムの台頭を許してしまった。先進国は富の集中による格差社会の不安と、中国をはじめとする途上国の経済発展で相対的地位の低下をもたらした。国民国家は本来、ナショナリズムによって形成されてきた歴史があり、時代の変節期には何らかのナショナリズムが顔を出すことがある。ヨーロッパやアメリカにおける移民の排除、あるいは同じ同胞の中から、異質なものをあぶりだしSNSを利用して批判や排除を行うヘイトクライムなどは、排除のナショナリズムである。中国の場合は先進国が100年前に行った侵略同化、国土拡大のナショナリズムでxある。

 多くの途上国は民主主義が定着しておらず、君主制をとる国家も多い。それでも政情の安定と安価な労働資源を持つ国に対して、先進国は次々と巨大な投資を行い、世界サプライチェーンの中に組み込んで利用してきた。その最大の国は社会主義国の中国である。経済が発展すれば、民主主義が生まれてくるという安易な発想によって、気が付いてみれば巨大な全体主義国家が生まれてしまった。[2] 本来なら先進国にならって民主主義が生まれるはずだった途上国は、先進国の民主主義崩壊によって手本となる民主主義を得ることが出来ずに民主化の機会を失ってしまった。いわば中国は先進国が生み出したモンスターであり、生まれてきたモンスターは自由と民主主義ではなく、人々のプライバシーや権利を無視し、AIによる個人や、あらゆる組織の監視を前提にした国家による管理を目指す社会体制である。その責任は途上国だけではなく先進国にもあると言わざるを得ない。途上国の民主化のためには、先進国が彼らの手本となるような立派な民主主義の存在を見せることが必要なのだが、現実には先進国の中にもAIを利用した「新全体主義」と呼ばれる脅威が起こっていて、進んでいる方向は先進国も途上国も同じである。

 

 アメリカ型グローバル化と日本

「これからはグローバル化の時代である」と宣伝してきたのは、先進国の政府で、いかにも希望に満ちた新しい時代の到来と思わせた。グローバル言語は英語であるから、小学校からの英語教育や文化のアメリカ追随を始めた。英語は、アメリカにとって自国の言語であり、自国の法律やシステムを諸外国に押しつければ、アメリカに有利な環境が出来上がり、アメリカのグローバル企業にとって最高の経営環境が整備される。

グローバル化はアメリカ型のグローバル化ばかりではなく、もう一つの地球規模で情報を共有し、共存して相互に幸福度を高めるグローバル化も存在する。日本が目指すべきグローバル化の方向は、地球のエネルギー資源を考慮し、国家間の取引においても共存共栄を前提に働く人々や、すべての国の人々が真の幸福や豊かさを共有でき、企業の利益追求ではなく、社会貢献を企業の目的とし、株主のためではなく、労働者や人類のために存在するグローバル化の道もある。残念ながらいまだ十分に機能していないが、日本が真に求めるグローバル化は、こちらの方であり、この道のリーダーになるべきである。

日本の大企業においても、永年維持されてきた終身雇用制度が維持できなくなって、2000年に正規雇用者3,630万人、非正規雇用1,273万人だったものが、2018年正規雇用者数3,476万人、非正規雇用者2,120万人と非正規雇用者数は激増した。大資本は、いつでも解雇できるシステムの導入を政府と画策し、終身雇用者も限定正社員に組み換え労働者の不安を増すことで労働強化や帰順を強いるようになった。アメリカ的でグローバルな雇用制度を、日本の企業に都合の良い部分だけを受け入れた結果、全体の一貫性が無くなり不安定な形態になってしまい「働き方改革」はこうした日本的経営の破壊と矛盾を正当化するために登場したもので、当初から労働者のためになるようなものではなかった。求められるのは、労働者や環境を大切にする新しい日本の経営制度を創出することである。

 

第3章 管理労働の自動化

 コロナウィルス禍とAI時代の労働

自粛が中小零細企業を追い詰め倒産や撤退が増加し、中小事業者は壊滅的な損害を被り先行きが見えない中で必死に組織の維持をはかっているいる。コロナウィルス禍は、社会の矛盾を一気に表面に映し出し、その問題点についての答えも先送りが出来ないほど追い込まれている。医療、働き方、地域社会の問題、政治、経済、法律などの噴出した諸問題を急いで解決しなければならない。

今必要な改革は、ポスト資本主義に関わる労働の本質に関する問題で、働くとはどのようなことなのか、という当たり前と思われることを、一度考え直そうということである。なぜなら、AIの進展と技術の進化によって、以前より人間労働を必要としない社会がすぐそこまで来ているからである。

自粛によって家に閉じこもり、それでも企業組織維持のためにリモート技術を利用した働き方が半ば強制的に始まり、これをきっかけに働き方を根本から見直す動きがみられた。リモートで自宅から出社することなく仕事ができるなら、労働者にも経営者にも好都合なので在宅勤務が増加することは目に見えている。長い間、生産性が低いといわれていた日本のオフィス労働が大きく変わる転換期である。当然これから在宅勤務のためのマニュアルやシステムづくりを行わなければならない。在宅勤務の問題点は、家庭の都合や勤務時間や勤務の仕方、必要とされるマネジメントや助言制度、報告の在り方など課題も山積している。

 

 資本主義社会における労働

資本主義社会における活力の源泉は私的所有である。しかし企業が大きくなり社会的な存在となることで、企業の側面である公的役割が重視され、私的所有なのに公的役割を果たさなければならない矛盾が存在するのも資本主義の大きな問題点である。

資本主義の発展段階について分析するときに注目するべきところは、労働形態の変化である。資本主義は製造業において、どのように労働形態を変化させてきたかといえば、封建社会の末期から始まった職人による小商品の生産段階において、この時代の働き方は、すべて自分で管理することであった。原材料の調達、生産用具、生産技術、生産所、顧客の創造まですべての段階で自己責任による仕事が行われてきた。職人は肉体労働としてのモノづくりと、そのための手順や賃金を得るために予想される状況に対処するための頭脳労働の両方を行ってきたのである。この段階では徒弟制度による技術の囲い込みが行われ、容易に技術を手に入れることは困難であった。技術は長期間の弟子入りで、仕事とは関係ない日常生活まで親方のために尽くしてようやく手にいれるものだった。一旦技術を手に入れると、今度は誰からも管理されない自由な労働を享受することができた。それはある意味で自由な労働であった。働きたいときに働き、仕事相手や顧客を自らの手によって選択することが出来たのである。つまりこの時代、職人は管理労働部分と肉体労働部分が分化していなかったのである。

次に始まった仕事改革は、マニファクチャ段階への移行である。ここで初めて管理労働が生まれ、それまで職人の手にあった管理労働部分は新たに出現した管理者によって奪われてしまった。マニファクチャは一つ屋根の下に職人が集められ、定められた労働時間と仕事の分担によって生産性を大きく向上させることに成功した。職人は管理者の支配に従い、仕事の一部分を担うことになった。それでもまだ、商品生産のためには職人の技術が必要で、生産のための道具は職人の所有物であった。つまり商品の生産のためには個人としての職人の技術に頼っていた。もちろん肉体労働のみといえども、若干の頭脳労働を残しているが、それは肉体労働をより上手に行うためのものであった。

次の段階は産業革命である。この段階では職人の存在そのものが否定されることになって、肉体労働としての人間労働も機械によって代替されてしまった。もちろん初期の段階では機械化が困難な部分は人間労働に頼らなければならなかったが、この時代の資本主義の歴史は人間労働が機械によって奪われる歴史でもあった。産業革命以降の人間による労働は、基本的に機械の補完的な労働で、以前は大勢の労働者が工場で働いていたが、現在では少数の労働者を残すだけで、生産現場では基本的に無人工場を目指している。産業革命は製品の規格化、生産性の向上によって飛躍的に経済が発展し便利さと豊かさを実感することができた。この過程において肉体労働を担ってきた現場の労働者は次第に減少し、管理労働者の富の増大と、機械に仕事を奪われた肉体労働者との間に経済的な格差がもたらされることになった。

 

 管理職労働の終幕

次の段階としての情報革命は、コンピュータの出現により始まり、頭脳労働者たる管理者の仕事が機械に奪われてしまう段階である。それは人間の労働が根本的に変化する時代でもある。人間労働の機械化は、資本主義成立当初から行われてきたことはすでに述べた。生産部門から人間が駆逐され、さらにサービス部門や管理労働の機械化の過程で自動化が進み、管理職が担ってきた管理部門でも機械化が進行して、管理者の数も縮小するようになった。

19931月にオーディオメーカーのパイオニアが中間管理職35人を解雇した「パイオニアショック」と呼ばれる出来事は、それまで正規雇用の管理職が解雇されるなどということがなかった管理職の人々に大きな衝撃を与えた。管理職になると労働組合から離れることになり、周囲から支援されることもなく、給与も比較的高額で会社としては効率的なリストラであった。そのため多くの企業で同様の中間管理職を狙ったリストラの嵐が起こり、日本企業の管理職数は減少してしまった。[3] 時代はバブル崩壊後の不況期で、1999年にブリジストン本社で起こった悲惨な事件も、日本の企業経営者が忘れてはいけない出来事である。企業が国際競争で勝利するため、利益を確保するため、合理化を進めて従業員を解雇するという風潮はいかがなものか再考の必要がある。

管理の自動化は、資本主義の最終段階でもあり、まさにポスト資本主義社会の始まりでもある。中間管理職のリストラから始まり、人間が人間を管理する労働が否定され、管理職の仕事そのものが不要な時代になり、さらにAIの導入による管理職のリストラ第二弾が、現在進行中である。

 こうした変化の中でまったく変化しない部門がある。大企業の経営者、政治家および公務員である。とりわけ重要なのはトップマネジメントの自動化が意図されていないことである。しかし情報化が進展した1980年代から、コンピュータによる企業経営全体を最適化するシステムが研究され、トップマネジメントの意思決定さえもコンピュータに置き換える方法を模索してきた。[4] 最近ではオフィスにRPARobotic Process Automation)を導入し、単純な事務作業を自動化することが可能で、人件費の大幅な削減が現実のものになり、業種に関係なく組織管理の自動化の過程が早められそうである。企業のトップマネジメントといえども、情報化による組織進化の例外ではなく、今まで勘と経験に頼っていた意思決定は、AIを最大限利用して精度の高いシステムに置き換えられることになる。トップマネジメントによる意思決定が、AIによる意思決定よりも優れた思考と采配でなければ、高額な報酬を受け取る彼らの存在を誰からも必要と認められなくなり、トップマネジメントといえども使い捨てにされる可能性がある。もちろん選択的決定次第ではあるが、それを決定するのはグローバル企業のトップである。

 企業内部に存在するトップマネジメント機能は、戦略の策定や意思決定など企業経営の中枢という重要な役割を担ってきた。そのトップマネジメントの仕事が自動化されると、トップマネジメント機能は、企業外部であるか内部であるかを問わず、AIの指示に従い経営を行うことになる。すでに巨大企業グループ内部のいくつかの企業や下請け企業において、トップマネジメントを必要としていない状況が生み出されている。

 

第4章  ポスト資本主義への道

 AIの利用

AI導入による労働の変化について、オックスフォード大学のC.BフレイとM.Aオズボーンの調査によって、現在ある仕事の半分ほどがなくなるというショッキングなデータが示された。[5] 日本においては、予定された2020年のオリンピックを契機にAI化の道へ転換する予定であったが、コロナ禍によって一部は早められ、また一部は遅延が認められる事態である。企業経営におけるAIによる新たな展開は、労働者の労働そのものに大きな影響をもたらし急激な生産性の向上と、人間労働(実労働と管理労働)そのものを不要にする方向で展開し、働くことの意味や新しい社会において労働の位置づけが変わってくる。AI導入で新たな仕事が増えるといわれているが、30年前に経験した情報化社会への転換時でもそうであったように、新しい時代に対応できない労働者が新しく生まれた仕事に移動することは不可能なことで、結局職を失うことになる。同じ誤りが繰り返されないような総合的な対策を必要とする。

もう一つの問題は、グローバル企業の経営者は自分たちに都合の良い政治家を支持し、政治資金を提供し、自分たちに都合の良い法律を制定させることである。すでに私たちの身の回りにあふれる防犯カメラの存在は、AIを使った監視システムに進化し、合法的にあらゆる会社や自宅をはじめ、あらゆる空間、ツールに設置されるリスクである。それは一部の企業に都合よく利用される可能性が高く、人々は監視される対象に過ぎず、一旦出来上がった監視システムは撤回できないことを理解するべきである。いよいよ、AIが本格的に社会を変える時期が到来したが、AIで何をするのかが重要である。いくつかの途上国では、監視と強制のためにAIを使い、すべての人類のデータを政府が管理しようとしている。ビッグデータをAIで解析することでかなり詳細なことでも正解を導き出すことが出来るようになった。AIは、その使い方ひとつで人類の発展に役立つものにも、あるいは災いをもたらすものにもなりえる。[6] これから社会をどのような方向へ進めるのか、どのような社会を構築するのか、はっきりとした構想がなければ、AIの導入は危険である。正しい目的をもって、より良い未来のためにAIを導入することが大事なことである。

 

 ポスト資本主義と文化 

アメリカ型グローバル化が、地球という一つの単位で経済運用していくことを目指して、他の国々はそれに合わせるように圧力をかけてきた。結果としてアメリカ以外の経済経営文化は葬り去られ、小国の文化を無視する風潮が生み出されてきた。

ロボット産業も日本の文化と密接な関係を持つ産業で、現在のようにロボットとの協働が重要視しされるとき、日本はこの分野で世界をリードすることができる。コロナ禍で世界中の多くの医療従事者や労働者が尊い命を落とされたことは誠に残念な事態であった。これを機に、医療従事者や、危機感を持ちながら働いている人の代わりにAIを利用したロボットを、早く登場させることは課せられた使命である。ロボットの定義は必ずしも確定しているわけではないが、人間の代わりに自動で仕事を行う機械はすべてロボットということが出来るが、日本には独自のロボット文化が存在している。日本のロボット製造企業は、ロボットを擬人化し、人間やペットのように可愛がり、できるだけ人間に近い二本足で歩くロボットを実用化することを目指している。日本にはロボットを主人公としたアニメや、小惑星探査機「ハヤブサ」が地球に帰還する際に多くの日本人が見せた小惑星探査機を擬人化した感情を見せたのは象徴的な出来事であった。文化の違いは、多様化の基本で善悪の問題ではなく、むしろグローバル化のような一極化のほうが脆弱であることは言うまでもない。

働き方にも同様に文化の違いがあって、社会は何らかの人間労働を通して進化発展し、高度に進んだ文明を創り上げてきた。現代社会において働くことは、人間の本性とも言える当然の権利で、生きていくことと同義語とも言え、資本主義社会で人間が労働の場から締め出されることは、思いもよらないことであった。もちろん、仕事が失われて人間が働かなくなった社会は進化が止まるのか、あるいはまったく新しい価値観で生きて行くことになるのか興味深い。

勤勉は日本の美徳と考えられてきたにも関わらず、拝金的な資本主義の結果、人間の視点が欠落し人を大切にすることや人間重視の考え方が、いつの間にか失われ始めた。人間のために経済活動があり、人間が社会活動を行うために労働を必要としてきたのであって、働くために生まれてきたのではない。

 

 目指すべき方向

目指すべき方向について述べなければならないのは、現実がそのようになっていないからである。ポスト本主義で目指すべき方向は経済発展ではない。私たちは、アメリカ型グローバル資本主義の嫌な側面を見続けてきた。かつて日本もエコノミックアニマルと批判されたが、途上国の拝金主義的な働き方にも辟易する。日本が目指すべき方向は働く人々の満足感と、一人ひとりが存在する居場所を確保できること、そして持続的発展が可能な資源の利用や、地球の環境を最適に保ち、公平で誰もが豊かさを実感できる社会を創ることである。

AIに関しては、自動運転や過酷な労働現場など、人の能力より優れた力を発揮できる部門では、歓迎されるが、それが人々の幸せに結びつくことが可能なのか、AIの導入と、人間労働との整合性を考え直すべきである。[7] こうした議論が深まることなくAI社会へ突進することになったのは、社会が複雑に拡大し、専門性は細分化されることによって、専門家が全体を俯瞰できない状況に陥りその結果、狭い領域の中での議論に終始し、にわか専門家がマスコミやSNSを利用して言いたい放題の大混乱の様相を呈してしまった。専門家や学識経験者は、自分の研究分野だけでなく、もっと多領域に渡る知識や全体を見渡せる教養を身に着けるべきである。ドラッカーは、知識は高度化するほど専門化し、専門化するほど単独では役に立たなくなる。他の知識と連携して役に立つ。知識は、他の知識と結合したとき爆発する。得意な知識で一流になると同時に、他の知識を知り、取り込み、組み合わせることで大きなパフォーマンスをあげられる。[8] と述べている。コロナウィルス禍における専門家たちの言動も、SNSやマスコミを通してリアルタイムに発信することで、逆に専門家に対する信用を失わせたかもしれない。

教育についても同様に、学校と教育を受ける側との微妙な溝が、やがて今までの教育の質やシステムを変更しなければならなくなるのは時間の問題である。リモートによる授業は、知識を得るためにはそれなりの効果はあるが、それならば学校に籍を置かなくても得られる知識である。学生たちにとって重要なのは集い、触れ、経験しなければ得られない知識や技術、そして人間関係や行動そのものであることに気が付いた。すでに学生たちは学校に対して今までとは違う価値観を持っている。

コロナウィルス禍で始まった在宅のリモートワークが当たり前になり、一旦その方向が示されると、あらゆる企業で一斉に方向転換するのが日本の得意なやり方である。噴出した諸問題は、後からどのようにでも対応できることは理解しているが、日本の場合外部からの圧力や、そうしなければならない大きな事情が背景にないと転換しない癖がある。[9] いずれにしても、大きく転換することになった日本のオフィス労働は、新たな働き方として、さらに生産性を上げるためにAIやネットワークを利用した仕事の仕方に突進していくであろう。新たな働き方は同時に新たな人材を必要とするので、今までとは異なるタイプの労働者を求めるようになる。20183月に統合イノベーション戦略推進会議で決定された「人間中心の AI 社会原則」はAIに関する政府の基本認識である。具体的な事項に関しては各省庁に任せていて、人間中心と言いながら詳細は各企業のステークホルダーに丸投げで、政府の関与は限定的である。[10]

 

まとめ

 資本主義の発達は、最終段階目前に達し、産業革命以降進めてきた自動化も終局に入り、工場やオフィスなど多くの職場で労働者を除外し、機械による自動化が完成されつつある。本論文では「管理者」の自動化について指摘し、いまだに機械化、合理化が行われなかった官庁・政治・学校などにも自動化の波が押し寄せつつあることを説示した。AIを利用した、トップマネジメントの自動化も可能になって企業組織の在り方や、そこで働く労働者の意識改革が必要になった。会社という組織に雇われて生きていくことが過去のものになるとしたら、今からどのように対処しなければならないか考えるべきである。  

コロナウィルス禍下のAI導入により、社会は大きく変わろうとしている。日本は現在の企業制度をアメリカ型グローバル経営から、多くの人々が共感できる新しい制度に改革し、SDGsを重要視した新たなシステム造りを目指し、社会貢献、格差、支配についての課題の解決や、企業が果たすべき役割を義務化するべきである。新たな視点で新しい経営を創造するという目標を掲げることで、イノベーションやスタートアップ企業には集中的に支援し、日本発の新たなビジネスモデルを構築することが望まれる。

現在起こっている社会変化についてドラッカーは、ポスト資本主義関連の著書の中でいく度も指摘していて、いまさらながらドラッカーの長い射程距離を持った知見に脱帽するばかりである。今までの企業のように、利益優先にした組織で束縛され、命令に絶対的に服従する働き方から、もっと労働を楽しみ自由に働くこと、あるいは働かない人の自由も含めて、組織の改革を進めることが可能なはずである。


[1] 河野健二著『フランス革命と明治維新』日本放送出版協会、昭和47年、192ページ。資本主義の嚆矢であるフランス革命と明治維新を比較すると、フランス革命は民主主義革命を目指したのに対し、日本は民族主義革命の範囲にとどまった。

[2] 中谷巌『資本主義はなぜ自壊したのか』集英社、62ページ。結局のところ、民主主義もエリート支配のツールであったのかもしれない。民主主義を過信する危険性は認識しておくべきだろう。

[3] 大井 方子稿数字で見る管理職像の変化」人数, 昇進速度, 一般職との相対賃金、県立高知短期大学。

[4]   1980年代から始まったCIM(computer Integrated Manufacturing)はその後、ERP(Enterprise Resource Planning)SCMSupply Chain Management)へと進化したが、当初よりマネジメントの自動化も視野に入れ、究極的にはトップマネジメントの意思決定をコンピュータによって置き換えることを目指していた。

[5] Carl Benedikt Frey and Michael A.OsborneThe Future of Employment(2013)

[6] スティーブン・ホーキング氏、イーロン・マスク氏、マルクス・ガブリエル氏などAIの導入により、人類が神の領域に踏み込んでしまうのではないかと危惧する人々も多くいる。

[7] 総務省「AI利活用ガイドライン」2019年報告書。消極的ではあるが、AI利用の原則が決められている。

[8]  P.F.ドラッカー著『経営者の条件』ダイヤモンド社、8185ページ。

[9] ドラッカーが述べている「一夜にして180度転換する能力」が今回も発揮されたようである。

[10] AI の利用がもたらす結果については、問題の特性に応じて、AIの開発・提供・利用に関わった種々のステークホルダーが適切に分担して責任を負うべきである。」と述べている。


2020年10月2日金曜日

民主主義を過信するな  

 今春コロナウィルス禍による史上初の世界的な自粛によって、人類は自宅に籠ることになった。想像もしていなかったとか想定外ということが許されるならば、まさにあり得ないことが実際に起こったことは大きなショックであった。私自身も、新たなステージで期待をもって準備していた、あらゆる仕事をキャンセルしてほとんど外出しない生活を続けている。私は仕事を、昔から自宅で行うことが多かったので、籠るのは結構得意ではあるが、当然少し様相が違う。 

 

 第一に社会の動きが手に取るようによく見えるということである。あまりテレビは見ないのだが、それでもネットニュースなどに誰が何を話したとかそれに就いて誰がどのような批判をしているなど、些細なことで上げ足をとるのが流行っているようで、怒ったり謝ったり忙しい。その辺は人々が神経質になっているのだろうと考えていた。これが一時的なことなら看過するが、世界中で同じようなことが繰り広げられていて、少し行き過ぎだから落ち着いてとつぶやく。 

 

 自国優先主義、米中対立、日韓対立、安倍総理退陣、アメリカ大統領選挙など政治をめぐる話題もコロナウィルス禍と相まって激しいものになっている。ヨーロッパやアメリカでは自粛や集会参加、マスク使用の自由をめぐって激論が戦わされ、逆に日本では議論も起こらず、従順に自粛し静かにしているのが当たり前のような見えない圧力を感じる。非常時だから、当然で通常ならこのような議論も対立も起こらないが、だからこそ普段見えない社会の矛盾が一気に噴出してしまったように思える。どの国が最も民主的なのか、民主的なことが良いことなのか、民主主義とは何か改めて考え直さなければならなくなった。政府の支配力はどこまで有効なのか、政府の命令に従わなければならないのか、それは全体主義と違うのか、まさに民主主義の危機である。 

 

 コロナウィルス禍発祥の中国では、全体主義的な支配を行う国家で、近年の尊大な態度や民主主義を軽蔑する態度に、西側先進国は非難を浴びせかけている。中国がまだ経済発展する以前、先進国は中国の格安な人件費と広大な市場を利用して莫大な投資を行い、国際的サプライチェーンに組み込んだ。経済が発展すれば中国も民主主義が発展するはずだと信じていたようだが、そうはならなかった。なぜならば、近年先進諸国の状況は民主主義とは言えないからである。あの格差を見れば、それが民主主義とは言えない。グローバル企業の経営者たちの濡れ手に粟のような資産づくり、いくら働いても貧しさから抜け出せない弱者を自己責任と蔑み、対立と差別の国家が民主主義であるはずがない。 

 

 民主主義の良いお手本が無ければ、途上国や君主国家が民主主義国家になることはできない。先進国は全体主義国を非難するが、先進国が本当に民主主義国なのか良く考えるべきで、その行動を見ると、国家のリーダーたちが自分たちの利益しか考えていないようで、向かっている方向は途上国も先進国も同じように見える。日本は民主主義国家だと誰もが信じているだろうが、それは実に不明確で曖昧なものである。民主主義が大切だというなら常に検証し続けなければいけない。民主主義が不明確あいまいだということを忘れてはいけない。だから民主主義を過信してはいけない。 

  

 

  

 

  

2020年1月21日火曜日

経営管理の課題(来るべき時代の変化に備えて)

  日本の経営管理については従来から多方面で議論され、問題の所在はだれでもよく分かっているように思われている。しかしながら、海外の経営管理と比較して、異なる日本的な部分の評価については相変わらず意見が分かれている。最初から日本的な特質を遅れた封建的な経営管理と否定する研究者と、それを日本的な特質として受け入れ、長い時間かけて構築された日本的な経営管理は海外では受け入れられなくても、日本人の生活に密着した管理方法と評価する研究者も多く存在する。海外で研究して戻ってきた若い研究者に見られる、欧米崇拝的な経営管理理論は、そのまま日本に当てはめてもうまくいくわけがないし、日本の経営管理をレベルの低いものとする考え方は、いかがなものなのか。この国が日本的経営で世界一流の近代国家を構築したことを忘れるべきではないし、欧米型のグローバル経営で日本も世界も矛盾が拡大し、不幸になる人たちが続出している現状を見ようともしていない。やはり新しい時代に合った日本的経営の構築を目指すべきである。

近年話題になっている「働き方改革」についても同様の評価があるものの、残業が後ろめたいものと認識し始められていることは、それなりに効果なのかも知れない。しかし、働き方改革が残業の問題に集約されてしまい、もっと大事な労働の本質を議論しなければならなかったのに、この部分は葬り去られてしまったのは、何か意図的なものを感じる。つまり、議論させたくなかったのか問題の所在そのものを覆い隠してしまったようである。

経済の二重構造は解消するどころか、ますます拡大し、大企業の労働者は比較的短い労働時間(1800時間)で賃金は高く、福利厚生施設は充実し、働く環境も良好であるのに対し、中小企業労働者は長時間労働で、少ない賃金を補うために残業を余儀なくされているにも関わらず、残業カットによる賃金の減少は議論ざれなかった。さらに正規雇用と非正規雇用の問題も非正規雇用者を2000万人も増やし、彼らに残された正規雇用への道をふさいでいるのは何のためなのか議論されなければならなかった。残業の問題などは、労働者の自由に任されるべき問題で、他人が口を挟むことではない。ただサービス残業や、残業の強要が行われていたことが問題なので、残業そのものについては労働者の自由裁量の範囲である。 

このブログを始めた当初から、「大きな変化の時代が来る」と言い続けてきたが、いよいよ、その変化が誰の目にも見えるようになってきた。変化はすでに起こっていた。経営管理に関するすべてが大きく変わる。働き方が大きく変わる時が来た。企業に頼る時代は終わった。企業に雇用され、指示・命令で働くのではなく、一人一人が自分で仕事を選び、そのために必要なスキルを身に付け、プロフェッショナルとして企業を利用して働くのである。プロがプロの仕事をするために企業が必要なのであって、企業が主役ではなく、働く人々が主役になる時代である。ある一面、厳しい時代なのかもしれない。企業に頼って働く方が楽かもしれない。しかし時代はすでに変わってしまったし、戻れない。この変化を見ようとしなければ、人も企業も置いて行かれる。就職とか定年などという言葉も過去のものとなるであろうし、あたりまえだけれども自分のことは自分で決めるべきであり、当たり前なことなのに、現在の経営管理は自分のことを他人が決めていることにお気が付いていない。このような時代の変化を捻じ曲げようとするものはいつの時代にも存在するが、この変化は明治維新にも匹敵するような変化である。明治維新期にも時代の流れを止めようとして争った人たちが多く存在した。しかし、結局大きな時代の変化には勝てなかった。変化に付随して起こる諸問題は、その都度解決していけばよいので、大きな流れの方向を見失わないように心がけることが必要である。

 
最後に私の授業を受講してくれた諸君の将来が、明るく開けていくことを願っています。
ありがとう!

2020年1月20日月曜日

カルロス・ゴーンの経営

なぜカルロス・ゴーンが日産自動車のトップになったのか。

2000年日産自動車は6000億円以上の負債を抱え、経営破綻寸前だった。トヨタに対する対抗意識が高く、儲からなくてもとよたと同じような経営を行ってきた。しかし、無借金会社のトヨタは日産のライバルではなく、トヨタ独自のトヨタローンを組んで顧客に車を売れば、利子だけでもトヨタは利益を出すことができるので、場合によっては原価で売っても利益は出る会社である。日産は儲からなくても車を売り続けた、いわば経営者の責任は重い。

 結局、日産自動車はフランスのルノー社から資金の援助を受けて再建することになった。ルノー社はミシュラン(タイヤ会社)の再建を成功させたゴーン氏を受け入れ、わずか1か年で経営を再建した。しかしそのやり方は、工場ごと廃止し、そこで働いていた労働者14万人のうち21千人を一度に解雇してしまった。強引で、超法規的なやり方は批判されたが、日産の再建を成功されたことでゴーン氏の名声は高まり、カリスマ経営者の名声を手に入れた。通常、社員を解雇するためには、出来るだけ解雇せずに済む方法やいくつかの問題をクリアしなければならない。だからそれまでの日本人経営者は大量解雇できずにいた。ゴーン氏は法的手続きを飛ばしてしまい、だれもそれを非難しなかった。つまりゴーン氏の経営は最初から法を無視した超法規的経営だった。彼にコンプライアンス(法を順守する)を求めるのは無理だったということである。それなのに日本人は、彼を褒めたたえカリスマ経営者と祭り上げてしまった。今更彼に法を守るように説得しても意味がないし、彼は、法を無視した、やりたい放題の経営を行ってきた。伝えられるように、彼は年間10億円の給与を得てきただけではなく、その数倍の資金を日産から得てきたことのようである。10億でも日本の経営者の中では最高金額である。彼は、アメリカのグローバル企業は、日産より小さな会社でも、もっとたくさんの給与を得ていることを知っていた。

 グローバル企業の経営は、あまりにも多くの問題があり、そのやり方は明らかに誤っている。ドラッカーは経営者の給与は一般的な社員の7~8倍程度が望ましいと語ってきた。その後も、グローバル経営者があまりにも多くの給与を得るようになってからも、20倍以内にしろと述べている。ゴーン氏の給与は200倍どころではなく1000倍近い給与を得てきたことになる。明らかに間違えているが、これがグローバル経営の実態である。

 

コーポレートガバナンス

 コーポレートガバナンス(企業統治)とは経営者が、どのように組織を管理するのかという問題である。当然、コンプライアンスは当然のことであるが、それより重要なのはゴーン氏の経営によって、日本のグローバル企業の多くが、ゴーン流経営を肯定してしまった結果、誤った方向に向かってしまったということである。経団連の経営者たちは、口をそろえて、いつでも労働者を解雇できるシステムを造れと言って、政府はそのような法改正を行ってきた。経営者の給料は上がる一方なのに、そこで働く労働者の給料は低いままである。小泉内閣以降、現在に至るまでグローバル化を過信して労働者を無視し、それまでの終身雇用制度を廃止し、再雇用制度も整備もせずに、労働者を不安定な地位に貶めてしまった。

 この授業でしばしば、話してきたことだが、「企業経営の目的は社会貢献である」利益は社会貢献するために必要な条件であり、それが目的ではない。ゴーン流の経営は、この面でも誤っているが、私たちも働くことが人生の目的ではないことを再認識するべきである。働くために生まれてきたのではない。社会生活を送るためにお金が必要なので、そのためのお金を得るために働くのである。家庭や家族を守ること、地域社会で楽しく暮らすこと、友人や仲間と楽しい時間を持つこと、そして何より自分がやりたいことを実現するために働いていることを忘れてはならない。

 日本社会は、海外の誤った潮流に乗せられ、自分たちの進むべき方向を見失ってきた。従業員を大切にしてきた日本の経営管理は間違えていなかったことを誇るべきで、本当に正しい方向へ自信を持って舵を切り直し、世界にそれを示すべきである。

2020年1月6日月曜日

新しい経営管理論を求めて

 社会を理解するためには一本筋の通った理念あるいは哲学が必要で、それが欠如していると場合当たり的な理解しかできず付和雷同し、強い者や全体の流れに流されてしまう。複雑な世界の、様々な考え方が縦横無尽に飛び交う現在、個別には理解できても全体の整合性を持った体系的な理解はしにくい。すべての事象を集めても全体を説明することは出来ない。たくさんの知識を身につけて、それを自身の教養としても、到底個人の行動を左右する根本の考え方になるわけではない。 

 むしろそのような個人の行動様式を決定するのは、子供の頃過ごした地域の習慣や伝統に左右される場合が多い。つまり子供の頃過ごした地域の文化や宗教が、成人してからも影響を及ぼすということである。それでは日本の文化や宗教が個人の行動様式を決定するほどの理念や哲学を持ち合わせているかといえば、残念ながら決してそのような大層な考え方が存在するとは言えない。多神教国家では「何でもあり」という考え方に陥りやすく、人々を支配するためには何か別の形で強制的に縛り付けるシステムを用意しなければならない。それが地域の風習や伝統で、それは理屈抜きの強制で、整合性など無視した矛盾だらけの行動を強制されるのである。哲学や理念など関係なく、繰り広げられる日常の出来事は次第に個人の考え方など必要としないで、所属する集団の行動様式に理屈抜きで従うようになる。現在でも、戦前の軍事ファシズムに対して、それがファシズムだといわれても理解できずにいるのは、それが当然のこととして受け入れてきたからである。そこには個人の思想や哲学など存在しなかった。 

 戦後日本人が目指した目標は豊かさであり、経済発展による国土の再建と個人の資産を増やすことだった。それによって日本人は一つになり、戦前武力によって成し遂げようとしたことを経済力によって実現したといわれるように、目標に向かって突進し経済大国の地位を手に入れた。問題は、日本人の意識が戦前と比べてそれほど変わっていないことである。相変わらず理念や哲学の不在と、自ら考えることをしていない。経済が発展し、豊かさを実感しているときは会社でどのような管理をしても我慢もできた。しかし、時代は変わりつつある。 

 経営管理の在り方が、今のままで良いわけではない。今までの社会は経済が中心に置かれた社会で、それで日本人は団結することができた。百年に一度とか大きな時代の変わり目と言われる現在、新たな理念や哲学がもとめられる。元来、理念や哲学不在の社会だったのだから、新たにではなく初めて日本の哲学を構築するときが来たというべきであろう。 

 新しい社会の哲学は、人間を中心に置かなければならない。主役は人間であり、人間を大切にし、人間本位の考え方でなければならない。そのように考えると、今までの経営管理は根本から考え直し、新たな経営管理が必要であり、すでにそのように変化している。以前のように大金持ちが尊敬されなくなった。かつて松下幸之助は「経営の神様」と言われ、尊敬の対象であったが、現在の大金持ちは人々から胡散臭い目で見られるようになった。日本人の求めるものは、自由で平等そして自分がやりたいことができる本当の味での「豊かな社会」である。 

 働かないことが悪であるというのは経済中心時代の考え方であり、働くか働かないかは自分で決めるもので、他人から強制されるものではない。さらに働く者は、指示・命令されて働くべきではない。もちろん、働く者は成果を上げなければならない。今までのように働いているふりは許されないし、結果を求められる。そのための新しい経営管理論を必要としている。